このネイティブスピーカー教師の行為は、英語学習者の自信を損なう可能性があります。特に日本で起こりやすくなっています。
前回の投稿で、私の見解では、日本の英語学習者は実際にはかなりうまく取り組んでおり、何も恥じることはないと説明しました。それどころか、日本人の英語学習に対する粘り強さとモチベーションは驚くべきものだと思います。しかし、これまで述べてきた3つの理由から、日本では英語に対してネガティブな感情を持っている人が多いのです。
この記事では、一部の学習者が経験する失望と失敗の終わりのないサイクルを説明し、解決すべき真の問題点として私が考えているものを探ってみたいと思います。
1)英語は理論的で、正しいか正しくないかの科目として教えられている、2)外国人に慣れていない、3)コミュニケーションスタイルの文化の違いにより日本人が不利になりがち、などの結果として、日本にいる英語ネイティブスピーカーは偶像化されているのです。言い換えると、ネイティブスピーカーは「必ず正しい」、「接する機会が少ないため、畏怖感を覚える」、「強く主張することが許されている」のように思われる傾向があります。これまで7カ国に住み、旅行もたくさんしてきた私の経験の中で、このような状態を見たのは日本のみでした。(私が知らないだけで、他にもあるかもしれませんが!)
この不思議な状態は、ネイティブスピーカーによる「オーバーコレクト(過度な訂正)」とでも呼ぶべき現象につながります。英語が話せるということは、ある種の超能力のように扱われるため、ネイティブスピーカーが移住してくると、街で注目の的となり、重宝されるようになります。また、日本に住むネイティブスピーカーの中には、英語教師という職業に就いている人も少なくないので、彼らがその地位を享受するのも無理はありません。
それ自体には、特に問題はないのですが、指摘する力を持ったネイティブスピーカー個人の性格により、最悪の場合、一種のハラスメントとすら言える状況もあると思います。
まず、ネイティブスピーカーといっても、実は自国語の教育には不向きであることを認識する必要があります。ネイティブスピーカーの多くは英語が唯一の言語である国の出身なので、第二外国語を話す機会も少なく、第二外国語の学習がどのようなものかを理解することもできません。
その上、ネイティブスピーカーの中には、謙虚さや優しさを持ち合わせておらず、内省的ではない人もいて、それが英語学習者にとって不利な行動につながることもあります。例えば、カフェで「英語レッスン」を見たことがあるかもしれません。そのレッスンでは、先生と思われる人が1時間かけて自分のことを話し、生徒にお金を払うことを求めます。これは生徒にとってどうなのでしょう?おそらく、彼らは自分の話す能力を発揮できず、やる気もなくしてしまうでしょう。
つまり、ネイティブスピーカーであるからと言って、必ずしも優れた英語の教師であるわけではありません。素晴らしい教師になるためには、もちろん英語の高い知識も必要ですが、多分一番重要なのは、生徒の成長を考えて応援しながら挑むことではないかと考えています。
しかし、学習者にとって最も有害な英語の教師の態度は、「オーバーコレクト」であることです。
オーバーコレクトとは、英語学習者が奇妙なこと、予想外のこと、間違ったことを発したために、教師がそれを遮り、その「間違い」がコミュニケーションを妨げていないにもかかわらず、訂正してしまうことです。例えば、あなたが「I went to the movies in Saturday」と言ったとしたら、確かにそれは間違いですが、学習者の伝えたいことを理解しづらくするものではありません。文法教室に通っているのなら、その間違いを指摘されるべきです。会話のセッションを受けているのであれば、先生が不必要に、あるいはあまりにも頻繁に口を挟むと、学習者は絶対自信をつけられないでしょう。その場合では、口を挟む代わりにセッション完了後にメモやフィードバックを与えてくれたら充実していくと思います。
偶像化されており、英語しか話さない教師にとって理解しにくい可能性が大きいことは、英語学習者は、会話の途中で中断され、訂正されると、自分の間違いを恥ずかしく思うようになることです。英語学習者が英語を話すことが恥ずかしいをいう思いと繋がるとと、英語を好きになり、上達することは非常に難しくなります。
そこで、言語における「間違い」とは何かについて、少し考えてみましょう。
科学者たちは、人間の脳がエネルギーを節約し、潜在的な危険を予期するために、予測を立てることによって機能していると理解しています。言語も同じように機能します。
誰かが話しかけてくるたびに、脳は自動的にその人が次に何を言うかを予測するのです。実際、聞き手はは話し手が発した音をすべてはっきりと聞き取れるとは限らないので、これによって脳はそのギャップを埋めることができるのです。
では、間違いとは何でしょうか。間違いは、ネイティブスピーカーが予期していないことを言ったときに起こります。あなたの言ったことと、ネイティブ・スピーカーが期待していたことの間にギャップがあるため、脳内でアラームが鳴ります。脳はそのギャップを埋めようと躍起になります。ネイティブスピーカーはネイティブスピーカーであり、特に日本では常にネイティブスピーカーであることを意識させられるため、自動的に、そして当然ながら、あなたが間違っていると結論づけてしまうのです。
そこで、驚かれるかもしれませんが、話し手が間違えていない場合もあるのです!
いくつかの例をあげてみましょう。
あるアメリカ人の友人は、私が "cyclical "の最初の音節を「アイ」音で発音したため、それを遮って、「イ」音であるべきだと教えてくれました。しかし、英語辞典には2つの発音が載っています:「アイ」と「イ」の2つの音です。アメリカにはいくつかのバリエーションがあるので、私はおそらく遭遇した1つのバリエーションを学んだのでしょう(「cyclical」は経済学のコースで学んだと思います。私はカリフォルニアで経済学を学んだので、カリフォルニアの発音を知っていたのですね。それに対して、友人は東海岸の出身のため、違う発音だったようです)。
発音に関わるもう一つの例を挙げます。イギリス人の友人が、「ハーブティーは "h "の音を発音するんだよ」と教えてくれました。しかし、私の家族はアメリカ人なので、私はアメリカ式の「h」の音のない発音を使っています。要するに、ネイティブスピーカーは自分が慣れていて脳が予想した音に反する発音が聞こえると、間違いかどうか判断しようとします。相手がネイティブだとその発音を不思議に感じても受け取りますが、相手が非ネイティブだと間違えたと結論づける可能性が高いのです。ですが、実際、英語という言語は多種多様で、発音にも辞書に乗っている様々なバリエーションがあります。
あいにく、オーバーコレクトは発音に限らないのです。
同居人(英語の先生!)が "Do as the Romans do "というフレーズの意味について自然にレクチャーしているのを耳にしたことがあります。私はその説明に少し戸惑い、ネットで調べてみたのですが、彼はこのフレーズを正しく理解していなかったようです。それは同居人が無能な教師であるということではありません。人間なので、母国語でも間違えることもあります。例えば、私の母国語であるフランス語の能力は、直接英語で学んだ領域においては英語より低いこともあります。
つまり、母国語の能力が完璧であることはないのに、英語の教師を偶像化してしまうと、このような教師は、自分自身の言語理解を再確認することが少なくなってしまいます。
他のビデオや投稿でもお伝えしているように、もし英語学習者が一定の英語レベルを超えたら、あなたにとって最適な教師は、関連する経験を持つ人が示すことです。あなたの日本語が完璧ではなく、日本語でも難しい話題があるかもしれないのと同じように、英語のネイティブスピーカーも間違えることがあり、すべてのことについて知っているわけではないからです。ですから、例えばビジネスで英語を使いたいのであれば、ビジネス経験のある人が先生として最適です。先生の経験が自分の目標に近ければ近いほど良いです。例えば、ロンドンで金融関係の仕事をするのが目標なら、金融の知識があるイギリス人の先生がベストです。
そのため、CfICでは、メンバーが国際的なネットワークを広げ、関連業界の国際的なプロフェッショナルと繋がることを支援するのも重要なサービスの一つです。
結論として、オーバーコレクトは、日本の学習者の英語に対する自信と楽しみを陰湿に損なっていると考えてきました。
誤解のないように申し上げると、すべてのネイティブスピーカーやすべての教師が過矯正であると言っているのではありません。私は多くの素晴らしいネイティブの先生を知っていますし、その中にはCfICのセッションを主催している先生もいます。そして、いずれにせよ、私は何らかの主張をするための確固たるデータを持っているわけではありません。ただ、オーバーコレクトは悪循環で、生徒が恥ずかしく感じれば感じるほど、到達不可能なゴールの代表であるネイティブスピーカーを偶像化しすぎてしまう、等のことが起こります。教師が励ますのではなく、支配的になってしまうのです。
でも、この状況を簡単に、「思いつかなかったなんて!」と解決する方法があるので、喜び、希望を持ってほしいのです。先生にも、生徒にも、ネイティブにも、ノンネイティブにも、誰にでも効く簡単な解決策があり、それがCfICの最終目標なのです。次回の投稿で、それを明らかにしていきます。
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